異論:着物と漢字の日本文化
日本人だからと言って、日本特有のナントカにこだわる必要はないと思っている。
たとえば、中国やインドは経済発展がめざましく、若者の西洋化も進んでおり、中国の若い子はみんな一様に「ワンピースが好き」と言う。だからと言ってこちらが、「三国志は?」「水滸伝は?」「孫文は?」と要求したらそれこそ上からじゃないか。
自分が違和感をずっと持っているのは、日本だから着物、日本だから妖怪という固定された図式で、人間椅子の和嶋慎治さんほどの読書家ならばそれも説得力もあるけれど、ムリヤリ漢字や着物を多用することに意義はあるのかね?
漢字あるいは文字は、平安時代と、鎌倉以降で、ぜんぜん意味合いが違うし(網野善彦が書いている。カンタンに言うと、文字への敬意が違うのだ。昔は文字は神聖なの。今のように日常用具じゃないの。塔婆の神聖さをイメージすればいい)、
着物だって、飛鳥、平安、鎌倉、室町、江戸、明治以降でそれぞれ意味合いが違う。
平安時代は、着物は貴族の服だが、江戸では商人も着ていたし(端唄、小唄は商人のカルチャーだ)、明治以降は「時代遅れ」だ。
また同じ時代でも階級ごとに意味があって、鎌倉時代ひとつとっても、
ぜんぶ違うんだよね
(一遍上人絵伝を見ればよくわかる)
これから、着物、ジャパン、日本文化と言うならば、言うほうも、もっと調べる必要があると僕は思っている。
「私が着ているのは、いついつ時代の、誰それ階級の、なになに用の着物です」と説明できるところまで調べるのは、ビジネスとして、チケットなり音源を売る上で最低限の用意ではないか?
逆に言うと、中途半端にジャパンジャパンするならば、井上陽水さんの「傘がない」、南こうせつの「神田川」のほうが、よっぽど「日本」的だし、魅力もあると思うんだけど、はてコレカラの市場と民意はどう動くかね?・・・・
井上陽水「傘がない」
※ギターのイマポリさんが、いい味を出しています